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概要

chiisanamachi

100されている。大船町とその西側を画する街路は大間道と称されたとされる。大火後の拡幅であるから、四間道の拡幅は防火上の意図があったと解釈されてきた。ほんとうにそうだったろうか。ところで、四間道は実は「四軒道」あるいは「湿気道」といわれたとする説もある。この道沿いに北から浅間社・光明院・神明社・浄信寺の4つの寺社があるため「四軒道」と称されたという説。四間道は大船町筋に比べて土地が低いために雨・泥が流されてくることによる「湿気道」が転訛したとする説である。いずれにしても四間道は4間の道幅である。●地域を分断してしまう街路拡幅元禄期における四間道の拡幅は、防火目的であったのかどうか。四間道が防火帯としての機能を発揮するには狭い、と言わざるを得ない。実際、拡幅後の享保9年(1724)及び文化8年(1811)にも大火があり、火勢は四間道を越えて広がった事実がある。4間の幅では防火帯※9の役割は果たし得なかったのである。では、どのような意図があったのか。当時の無秩序な市街地の拡大状況に着目する必要がある。城下町としての都市構造が整い、この地域は市街地拡大が進み、農地から市街地への転換が元禄期の初めに完了する。そして、より高密な都市※9 一番身近な防火帯は、静岡市青葉公園である。昭和15年(1940)1月15日正午過ぎに出火し、市街地のほとんどを焼失した「静岡大火」後、青葉公園が計画された。静岡市役所から常盤公園まで、延長520m、幅36mの防火帯として整備された。