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概要

chiisanamachi

124●大洲のまち構造と「おはなはん通り」明治21年(1888)に取り壊されたままになっていた大洲城の復元は、市民の長年の夢であった。平成6年(1994)の検討委員会の発足から10年、約5億円の市民の寄付により、大洲城天守閣は平成16年9月1日、復元され公開された※5。大洲の城下町は大洲城を西端に、臥龍山※6を東端に東西に細長く広がっている。東西の通りは北から本町、中町、末広町で、城下町の骨格は今に受け継がれている。市街の東部の中町3丁目や志保町、比地町界隈には、格子窓をもつ平入りの町家、下見板張りの民家や酒屋、茶舗、菓子店、表具店などの看板やのれんが並んでいる。雑然としていて統一感はないが、生活感があふれている。これらの商家は1軒の間口が2~4間、奥行きが8~15間と短冊形の敷地が連続している。表通りの母屋の奥に庭をもち裏手に蔵を配している。したがって裏通りには蔵の背中の壁面がずらりと連なることになる。「おはなはん通り」は、この蔵が並ぶ裏通りなのである。土壁、白壁、腰板張りや格子窓など、屋根の高さ、窓の大きさ、意匠も思い思いで変化に富む。表通りと同じように雑然とした中に妙な落ち着いた風情を醸し出している。これらの蔵は、かつて大洲藩の財政を支えた木蝋や繭の主産地であったことを今に伝えている。朽ちかけそうな蔵もあり、これから先どうなって※5 大洲城は、築城当時に造られたと思われる天守雛形をはじめ、古絵図、明治時代に撮られた写真など、数多くの史料に恵まれ、往時の姿を正確に復元できる日本でも数少ない城だといわれていた。戦後復元された木造天守閣としては日本一の高さ(19.15m)である。市民寄付の目標額5億円をH16.7.1現在506,312千円で超えている。※6 臥龍山は、文禄年間(1592~1594)藤堂高虎の家臣渡辺勘兵衛がここに庭園を作ったことに始まり、藩政時代には藩主の遊勝地であった。幕末の頃から補修されるでもなく、荒れるにまかされていたが、明治30年頃、豪商河内寅次郎は荒廃することを惜しみ、この地を購入し、構想10年・工期4年という歳月をかけて、数寄屋の傑作・臥龍山荘を建築した。県指定文化財である。