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概要

chiisanamachi

140寺内町の分布は近畿と北陸に限られているが、その北限が富山県の井波と城端である。蓮如は戦乱の京都をのがれて、文明3年(1471)、北陸・吉崎(現在の福井県坂井郡金津町吉崎)の地に移り、積極的な布教活動を展開する。蓮如は村ごとに講をつくり、道場を建て、講を集めて組とし、道場を集めて末寺とし農民の組織化を図っていくのである。当時、生産性の向上に力をたくわえつつあった農民たちにとって、道場は信仰の場であり同時に寄り合いの場であり、村の自治の場となってゆく。組織化された農民は必然的に守護大<コラム> 蓮如 ※1親鸞によって鎌倉時代の初め、浄土真宗はおこされた。親鸞の血筋を受けた蓮如(1415~99)は京都・東山の大谷本願寺で生まれた。蓮如は若い頃の貧しく苦しい生活にくじけず、親鸞の教えを各地に広めるとともに、教団の勢いを強めようと決心し、熱心に布教につとめた。蓮如は近江・摂津・三河・河内・和泉・越前・加賀など各地に出向いて布教した。そのため真宗門徒の数は急速にふえていった。1478年から京都・山科につくった本願寺は、周囲に堀をめぐらした広大な境内の中に、美しくみごとな建築がいくつも並び「まるでこの世の仏国だ」と人々がうわさしたという。蓮如の時代には、浄土真宗は数百万の門徒を従える教団であった。一向宗 ※2織田信長が一番てこずった相手が一向宗(浄土真宗)の門徒が団結して起こす一向一揆であった。1574年、伊勢・長島の一向一揆を攻めた時は、長島をとりまく川に数百の大船を浮かべて船上から大鉄砲をうちこんだ。一揆の人々が降伏を申し出ても容赦しなかった。一揆を憎む信長は2万人余りの男女がたてこもる城の周りに柵をめぐらし逃げられないようにしてから、四方に火を放って全員を焼き殺してしまったという。一向宗の総本山・石山本願寺攻めは1570年から10年をついやしている。1580年に壊滅させ、一向一揆を平定する。