ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

chiisanamachi

169明治15年(1882)勉三は仲間とともに帯広に渡り開拓をすすめた。先住民であるアイヌが暮らし生活を営んでいた※2が、計画的に人々が住む街を構築したのは、勉三たちが開拓していった以降のことである。北海道の都市は明治以降に計画的につくられ、その多くが方格プランを採用したが、帯広は方格プランを基調としながら、それに斜交する数本の計画的街路があることに特徴がある※3。<コラム> 依田勉三 ※1依田勉三(1853-1925・大正14)は明治14年(1881)の北海道踏査を経て、翌年1月、北海道開墾を目的とする会社「晩成社」を結成し帯広に渡った。依田家は松崎町大沢の豪農で、勉三は三男として生まれ明治6年ワッデル塾で英語を学び、明治7年から9年まで慶応義塾で学んでいる。恵まれた境遇にあった勉三がなぜ気候温暖な地から酷寒の北海道開拓に走ったか、あまりにも平穏無事にあったがために、逆に進取の気性を育まれ、かえって荒漠果てしない原野にあこがれたといわれる。※2 当時居住するアイヌは18戸、88人と数えられている。晩成社とアイヌの関係は親しく、十勝の生活に馴れない人たちをアイヌが助けたと伝えられる。鉄道北東側の斜交街路。現在は歩行者専用道路になっている。2005.2.12