ブックタイトルchiisanamachi
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170100m×50mの街区の中間に通り抜けができる路地をつくり、格子状に並ぶ街区で構成される街の単調さに界隈性をもたせ、味わい深い場所を生み出したのが「北の屋台」である。<コラム> 帯広の市街地区画 ※3帯広の市街地区画は明治26年(1893)から始まった。依田勉三が道路建設と郵便局設置の願書を札幌県に提出して10年目の時である。明治38年(1905)帯広・釧路間の鉄道が開通する。ここで整然とした碁盤目に斜交する街路は、必ずしも方格街路同士の交差点では交わっていない。鉄道南西側は大正10年(1921)に市街地区画が行なわれた。街路は方格街路と斜交街路が交差し、斜交街路同士が交差する部分は公園となっており、計画の厳密さを示している。しかし、ワシントンやシカゴに代表されるアメリカ都市計画の決定的な特徴がグリッドと放射道路の結合パタ-ンであったことと異なり、帯広の斜交街路は火防線であり、道路としての意味は薄かった。冬の北の屋台の通り。いきぬき通りと名付けられる。ほっと一息いきぬき、店主が第二の人生を生き抜くの意。