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概要

chiisanamachi

195カ-氏は飛田※4の様子を「“遊廓”がずらっと並んで、一軒一軒暖簾が掛かって、その後ろに若い女の人と年寄りの女の人が二人、火鉢を囲んで玄関で座っています・・・」と綴っている。●社会的につくり出された空間明治33年(1900)「娼妓取締規則」(内務省令第44号)が発布され、「売買春が一定の空間の内部において認められると同時に、それを警察が取り締まる」ことが定められた。「娼妓」と「芸妓」との分離が空間的に推し進められた※5のである。※4 飛田は江戸期からの汎称地名である。昭和2年(1927)阪堺電車(現南海)平野線「飛田」駅設置、4年住居表示が山王町4丁目に変更、48年(1973)山王3丁目1~20番に変更、55年(1980)南海電車平野線廃止及び阪神高速道路開通。※5 参考文献①4~9ペ-ジ、18~19ペ-ジ体を売る娼妓と芸を売る芸妓とは明確に区別され、娼妓の生きる色街と芸妓の生きる花街はまったく別の世界だったとされるが、東京と異なり、京都・大阪はじめ地方の都市には必ずしも当てはまらない。娼妓と芸妓が混在する花街が各地に存在したということであり、遊廓を花街の一種と考えるのも間違いではない。飛田遊廓入口の大門(だいもん)跡。門柱脇に飛田交番があり、幅10mの大門通りが手前に延びている。