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概要

chiisanamachi

22●朝鮮通信使と鞆S ところで土屋さんは鞆の浦には、いつ行かれましたか。T 数年前です。朝鮮通信使※2に関心をもって行きました。鞆の浦の医王寺は朝鮮通信使が滞在し、海の景観を賞賛したことで有名です。江戸時代、先進的な文化使節だった朝鮮通信使の発言は日本人の風景観形成に大きな影響をもっていたと思います。そして、鞆の浦と同じく朝鮮通信使が絶賛したのが、実は興津(静岡県静岡市)の清見寺だったんですね。こちらは朝鮮通信使が見た景観はもう残っていません。●計画を「とりやめた」事例もあるT 話しを元にもどしましょう。「やめる」勇気の話しですが、日本には一度決定したことを「やめる」という英断を下したところはあるんですか。る。「自立」とは、他の力によらず自分の力で身を立てることであり、他に属さず、ひとりだち、独立を意味する。これからの地域は、外部に追随したり押し付けられたりすることなく、まず地域自身が「自律」していくことが求められる。地域自らの規範に従って歩んでいくことによって、「自立」の道が開かれていくと考える。※2 日本と朝鮮の外交について、足利義満が応永11年(1404)、朝鮮と対等の外交関係を開き、両国使節の往来による国書の交換があった。近世の朝鮮使節は慶長12年(1607)から文化8年(1811)までに12回の来日があった。通信使一行は300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通・宿泊費や饗応はすべて日本側の負担であった。通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれている。