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概要

chiisanamachi

69蚕・製糸を通じ、あるいは冬季の酒造のための“百日稼”※1を通じて発展していった。17世紀、伊丹・池田に酒造業が栄え、ついで18世紀に灘の酒造業が発展するにつれて、そこに働く酒造労働者が数を増していき、“丹波杜氏(とうじ)”と呼ばれるまでになった。18世紀後半の灘酒の時代には丹波杜氏が主力であったといわれる。農民の冬季の唯一の副業として興った杜氏は、ぞくぞくと各地の酒造家のところへ出かけるようになった。ここに丹波杜氏の名声はいよいよ高まって、明治にかけて発展をとげる。杜氏出稼ぎの最盛期は明治30~40年代であった。●近くなった魅力ある場所静岡から東名・名神・中国の高速自動車道を通りぬけ、舞鶴自動車道に入ると通行量は激減する。時期によっては、前後も対向車もまったく確認できないこともある。そのジャンクションからほんの15分足らずで、丹波篠山に通ずるICにたどり着く。※1 明和3年(1766)篠山藩から他藩へ出ている奉公人は1991人で、その8,9割は百日稼ぎの酒造労働者であった。当時の多紀郡の男子人口は18000人、その4割の7200人が労働可能人口とすれば、1/4が冬季に杜氏として酒造地帯へ出かけていたことになる。出稼ぎが増加すると領内における労賃を高騰させ、地主の農業経営に影響を及ぼすため、19世紀前半に統制や制限がなされたが、天保12年(1841)百日稼ぎは国益として黙認せざるを得なくなり、農間余業として認め、単に届け出でよいとした。明治35年(1902)の多紀郡の酒造出稼ぎは4293人、38年は5500人にのぼった。『兵庫県の歴史』県史シリ-ズ28 昭和45年12月 山川出版社