ブックタイトルchiisanamachi
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85カガイの目的についても諸説がある。昔は男女関係が生産の基本と考えられていたので、集団的な性の行事は豊作への祈りと感謝の祭だったとする説。また昔はヤマト族と土着民がなかなかなじまなかったので、神の威光をかりて、血縁的なつながりを作らせたという民族融和の説もある。いつごろまでカガイの行事が行われたか、定かではないが、江戸時代の「筑波山名跡誌」に毎年6月中旬に筑波の子どもたちが男女ともども集まり、歌をうたい舞を踊って神様をなぐさめる行事のことが書かれている。「カガイの余風であろう」と記されている。●筑波山は江戸城の鬼門筑波山がたくさんの人でにぎわったのは、江戸時代である。その端緒を開いたのが徳川家康だった。家康が秀吉の命令で江戸城に移り関東を治め旧筑波町北条に立つ道標。正徳5年(1716)に最初に立てられたものを、寛政10年(1799)再建した。「これよりつくば道/東ひだり きよたき つちうら かしま/にし おふそね いちのや 江戸」と深々と刻まれている。