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概要

chiisanamachi

86ることになったのは、天正8年(1590)8月のことである。当時方角について迷信があり、北は不吉な方角だとされていた。江戸から北方はるかに筑波山がそびえていた。家康は筑波山が江戸城の鬼門に当たるとして、城の安全鎮護を祈願することとした。関が原の戦い後、慶長7年(1602)11月、家康は筑波山を徳川家の祈願所と定めた。徳川幕府の筑波信仰は、家康の死後もますます盛んで、三代将軍家光は寛永9年(1632)春から、筑波山中腹にある知足院中禅寺の敷地を拡張し社殿の改築を実行した。新たな土地の造成、石垣の建設、整地などの土木工事も加わり、大工はもちろん石工、仏師、屋根師、塗物師など一流の職人が江戸から派遣された。建築工事費はすべて幕府が支払った。材木は木曾ヒノキを船で霞ヶ浦の土浦港まで運び、それから馬で筑波山まで引きあげたという。昔の登山道はくねくねしていて、旧筑波町神郡(かんごおり)から筑波山を見る。男体峰が正面に見える。