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概要

chiisanamachi

90●歴史の変遷と山岳都市へのロマン江戸時代のにぎやかな時を経て、明治維新後の廃仏毀釈により明治5年(1872)8月、知足院中禅寺は壊された。大御堂や三重塔、千手観音はじめ仏像、仏画のすべてが灰と消えた。と同時に、多数の参拝客を失い、筑波山は急にさびれていった。人々が再び筑波山にもどってくるのは大正に入ってからである。大正7年(1918)4月に筑波鉄道が開通(土浦―筑波)し、11年に筑波駅から中腹まで自動車道路が開通した。さらに大正14年(1925)10月に中腹から山頂までケ-ブルカ-が開通し、登山はますます楽になった。登山客は一躍20倍にふえ、乗客は延々と行列を作って順番を待ったという。交通機能の新設により、筑波の集落を抜ける道の人通りはめっきり減った。かつて集落の下から中腹まで続いていた石段も昭和43年(1968)10月、石段の上に被せるように舗装され、デコボコした何とも異様な路面に変わり果ててしまった※8。地域の足でもあった鉄道も昭和62年(1987)に廃止され、70年の短い歴史の幕を閉じた。古代のカガイから江戸時代の宅地開発を経て、多くの人々が住み訪れるようになった現代までの歴史の変遷は、人を寄せつけなかった富士山と対比すると、ますます人の住む場所の履歴について思いをめぐらせる。そこだけ暖かい中腹につくられた山岳都市※9へのロマンを感じるのは、私だけだ※8 Y字形道路の東側、集落を上り切る箇所、筑波スカイラインの手前70mほどの部分に、まだ石段が残されている。筑波集落は現在通勤サラリ-マンが多く、デコボコの道を車が大きな音を立てて上り下りする様は、まさに異様な印象を受ける。