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概要

chiisanamachi

98「ケ」としての生活空間が、「ハレ」としての祭礼や地域的行事を支えているといえる。●城下町としての都市構造慶長12年(1607)、徳川家康は子の義直を尾張に封じ、清須にかわる城と城下町を那古野の地に計画した。それが名古屋である。名古屋は尾張徳川氏の居城として、洪積層の平坦な台地だった尾張国那古野庄に建設された計画都市である。城郭の建設は慶長15年(1610)に始まり、城下町の建設もこれと同時に進行していった。城郭と城下町は元和元年(1616)にはほぼ整った※8といわれる。名古屋城下町は、それまで政治的中心であった清須の都市機能を継承した。台地の北端に城の天守閣を据え、城下は主にそこから南方へ延びる尾根上に展開した。城郭の南、城下のほぼ中央部を占める「碁盤割」といわれる格子状の町割で構成される町人地は、北西に約6.5kmに位置していた清須から町単位で町人がそっくり移転した。いわゆる「清須越」(きよすごし)の町人が名古屋の城下町商業を担っていった。城下町としての名古屋の都市構造は、町家・武家屋敷・寺社の規則的な配置が、極めて明快な幾何学的形態であった。中心部の都市形態はほぼ固定的であったのに対して、周囲の町続地は市街地化が進行していく過程で変化が著しかった。四間道の東に南北に沿う堀川は、築城に当たっ※8 名古屋の町方人口は、承応3年(1654)54,932人、寛文9年(1669)55,849人、元禄5年(1692)63,734人を数え、ほぼ同規模の人口の金沢とともに、江戸・大坂・京の三都を除けば、当時の最大級の都市であった。