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概要

chiisanamachi

99て東海道の熱田の湊まで開削されたものである。堀川は、都市的活動の活発な碁盤割の町人地を区切る境界となっている。したがって「四間道」は町人地に隣接し、城郭内外の武家屋敷にも近く、美濃への交通の要路でもあった。また堀川の船運を利用した商業活動が活発に行なわれた大船町と、四間道でつながる町続地とからなる地域であった。●四間道の拡幅は防火目的か!?元禄13年(1700)2月7日、「四間道」はその大半を焼失する大火の被害に見舞われる。この地域だけでなく、堀川を越えた町人地にも及び、町家1,649軒、寺社15、武家屋敷21を焼失したという。『名古屋府城志』に「四間道筋は元禄十三年辰年炎焼以後、道巾四間ひろげし故に如此唱ふ」と記火後道幅が3間から4間に西側に拡幅され、四「四間道」の路地空間はT字路で結ばれ、つながっているといえる。路地は道幅2~4mである。T字路のアイストップとして四間道の土蔵が見える。